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​代表プロフィール

はじめまして フェリーゼス経営支援事務所代表の金本 淳(かねもと あつし)です。

金本 淳(かねもと あつし) プロフィール

【資格・所属】

トヨタ自動車での勤務経験と中小企業診断士としての経験を活かし、独自のVRS経営メソッドによる強い中小企業づくりをご支援します。

・フェリーゼス経営支援事務所 代表

・経済産業大臣登録 中小企業診断士

​・国際ファッション専門職大学 非常勤講師

・豊田市働き方改革アドバイザー

・公益財団法人あいち産業振興機構 経営技術専門家

・愛知県プロフェッショナル人材戦略拠点 連携専門員

・愛知県中小企業団体中央会 専門家

・愛知県商工会連合会 経営・技術強化支援事業に係るエキスパート​

・愛知県事業承継ネットワーク事業 事業承継専門家

​・愛知県および名古屋市信用保証協会の経営診断業務受託

・愛知県中小企業家同友会 瀬戸地区所属

【出身・生年月日】

・1969年大阪府高槻市生まれ 大学卒業後就職で愛知県に 長久手市在住

【家族構成】

・妻と息子(小6)の3人家族

(よき夫、父親になるべく日々修行中)

【趣味】

・バス釣り、スノボ、健康のため香流川沿いをランニング、

 カブト・クワガタ採集・飼育、メダカ飼育

【経歴】

・1987年 大阪府立千里高校卒業

・1988年 大阪外国語大学(現大阪大学)外国語学部 ポルトガル・ブラジル語学科入学

・1991年 ブラジル ジュイス・デ・フォーラ連邦大学留学

・1993年 大学卒業

・1993年 トヨタ自動車株式会社入社 海外部門で北米・南米・アフリカのマーケティング・事業企画・収益管理

       原価企画を担当。その後、商品企画部門で新興国向け世界戦略車・商用車等の商品企画を担当

・2012年 中小企業診断士資格取得。週末を利用し、診断士としての活動を開始

・2013年 経営企画部門へ異動。経営会議運営、CSR、リスクマネジメントしくみづくり等を担当

・2017年 トヨタ自動車を円満退社し、フェリーゼス経営支援事務所設立

【執筆】

・『実況!合格者の設問分解 事例解法シミュレーション H23』事例Ⅲ

   AAS名古屋(中小企業診断士受験予備校)

・『事業承継にむけて・承継していく理念と想い』(共著)

   中小企業診断士協会 第5回経営改革シンポジウム 事業承継研究会発表論文

・『季刊 診断あいち No120 わたしのこだわり』愛知県中小診断士協会発行

【セミナー・研修】

・『中堅社員教育指導講師「トヨタの問題解決手法について」』トヨタ自動車(株)

・『管理者教育講師「管理者の役割、品質管理について」』東京都 精密機械部品メーカー

・『お客様が途切れない繁盛店のつくりかた』小規模の小売・サ-ビス・飲食業向けセミナー

・『集客・売上アップセミナー』よろず支援拠点豊橋サテライト特別開催セミナー

・『~従業員の能力を引き出す~「安心・安全・ポジティブな場づくり」』瀬戸信用金庫経営者向けセミナー

・『~部下の考える力を伸ばす~ 「ビジョナリーコーチング」』瀬戸信用金庫経営者向けセミナー

・『~間違えると逆効果~ 「失敗しない働き方改革』瀬戸信用金庫経営者向けセミナー

​・『「経営者のビジョン」が会社の未来を変える ~描いた人だけが見える未来~』愛知県中小企業家同友会

【支援実績】

​・リサイクルブティック、うどん店、カフェ、洋菓子店、服飾雑貨店、リサイクルショップ、旅館、スイミングスクール、美容室、美容業、ジュエリー製造・販売業、不動産業、文具事務用品小売業、印刷業、看板製作業、スポーツ用品販売、制服販売業、   衣料品卸業、繊維製品卸売業、税理士事務所、環境設備販売業、防水工事業、土木工事業、造園業、建築会社、輸送会社、

福祉機器製造メーカー、金属機械加工業、石油製品卸業、金属・樹脂の表面処理・塗装メーカー、プラスチック部品製造メーカー、

フィルム・テープ・樹脂等加工メーカー、精密機械部品製造メーカー、楽器関連メーカー、等

<お客様の声>

​愛知県春日井市 

Mahoujin(リサイクルブティック)

経営者 伊藤裕美子様

​(2017年1月)

高蔵寺駅の近くで「委託販売」リサイクルブティックを経営しております。2008年に店舗をオープンして以来、比較的経営は順調でした。しかしながら、店舗周辺の地域の高齢化による客層の高齢化、それに伴う委託商品の変化等により、ここ数年売り上げが低下傾向にあります。そんな中、なかなか有効な手立ても打てずに困っておりました。

 

金本さんとお会いしたのは、なんとも不思議な偶然でした。実は日本ではないんですよね(笑)。昨年7月にフィジーへの短期語学留学したのですが、初めてお会いしたのはナントその時でした。中部地方から同じ日に到着したのは私を含めわずか二人で、そのもう一人が金本さんでした。初めてのフィジーということでとても心細かったのですが、英語も話せる金本さんがいたことで救われました。金本さんは、会社の自己研鑽休暇を利用されての短期留学とのことでした。その時に経営コンサルタントとして独立されるという話をお聞きしており、冗談で「お店見て下さいよ」みたいなことを話した記憶があります。

 

そんなご縁から、帰国後、金本さんからのご提案もあり、経営相談をさせていただくことになりました。これまでも何回か経営相談を受けたことはありましたが、金本さんのスキルには正直驚かされました。わずか1回、食事をしながらのヒアリングだけで、現状の分析から問題/課題/将来の方向性等を的確に整理いただき、それに対する解決策を示した10ページ以上もの提案書を作成していただいたのです。

 

それまで頭の中で色々な問題がモヤモヤしていたのですが、それをしっかりと見えるように整理し、そしてそれに対してひとつひとつ丁寧に解説をしてくれました。そのやり取りを通じて、本当に色々な気付きを得ることができました。まだまだやれることが沢山あるんだということ(逆にやることがあまりに沢山あることを思い知らされて、少し愕然としてしまいましたが。。。)、必殺技はなく、問題にしっかり向き合い地道にコツコツとやっていくことがいかに大切であるかということに気付かせていただきました。

 

特に、今の時代はウェブを使った集客が当たり前のように思うのですが、そういう流行りに飛びつくのではなく、私の店舗については先ずはチラシを使った集客が有効であること、そしてそのチラシもいかにお客様を引き付ける内容にできるかが重要なこと、言葉ひとつ、内容により大きく効果が異なってくること等を教えていただいたのはなるほどなあと思いました。

 

そして何よりも心を打たれたのは、金本さんが本当にお店のこと、私のことを考えて色々とアドバイスをいただいたことでした。経営者は、なかなか経営のことを相談できる人が身近におらず一人で抱え込んでしまうことが多いのですが、色々とお話を聞いていただき、アドバイスいただいたことで、気持ちが楽になり、やる気が出てきました。少し厳しいことも言われましたが、それだけでも相談を受けた価値が十分にありました。

 

これからご提案いただいたこと等を自分なりに考えて取り組んでいきたいと思っております。ただ、なかなか一人で進めて行くのは大変だと思いますので、困ったときにはご相談をさせていただければと考えております。

 

まだまだこれから先は長いですが、ひとまずお礼を言わせてください。ありがとうございました。

プロフィール詳細
【プロフィール詳細】 

  (代表 金本 淳 とはこんな人間です。少しでも知っていただければ幸いです。)

生後から大学卒業の24歳まで大阪府高槻市で育つ。両親と姉の4人で狭い府営住宅で暮らす。

小さい頃はお風呂がなく銭湯通い。夏場はよくベランダにたらいを置き風呂代わりにした。お風呂のある家がとても羨ましかった。

父親は自分が小学校6年生までは職を転々としていた。豊かではないが、不自由なことはなかった。週末には色々なところにも連れて行ってもらえたし、両親のことも大好きだった。

幼少の頃から野球好きの父親の影響で野球が大好きになり、地元のリトルリーグに入団。主にピッチャー、サード、ファーストのポジションをこなす。しかしながら、当時はスパルタ的な野球指導。怒られないかビクビクしながらの野球はつまらなかった。褒められてのびるタイプなので合わなかったか?しかも練習場まで遠く、自転車で1時間弱かかった。それを水、土、日と週3日。同じ小学校のチームメイトもいない。同級生とも遊ぶ時間もない。結局徐々に野球をする楽しみが感じられなくなり6年生の夏、チームを辞めた。

中学時代は、育った地域がそれほど裕福な地域ではないからか、かなり荒れた学校に通う。学校の窓ガラスが割られて殆どなく、冬場はダンボールを張り付けて風をしのぐ始末。またトイレの便器も殆ど破壊されており、トイレはもっぱら職員用のトイレで済ますという感じ。イジメも日常茶飯事。体育館の裏はタバコの吸い殻の山。原チャリでグランド走ってるやつもいた。たまにロケット花火も飛んでいた。授業がつぶれることもよくあった。そんな少し刺激的な中学生活だが今ではとても良い思い出。そういう時代を一緒に過ごしたからか、その頃の友達とは今でも仲がいい。そんな中学に通う一方、ブラックバス釣りにはまり、暇さえあれば近所の池か釣具屋に。父親にも色んな釣り場に連れて行ってもらった。感謝!

高校は比較的裕福な地域にある公立校に入学した。そのため中学時代付き合っていた人種とのギャップが激しすぎ若干馴染みづらさを感じる。最初は同じ日本なのに別世界に来たようだった。入学当初は同級生から新入生ではなく留年している生徒と思われていたとのこと。

中学までは勉強はそこそこできる自信はあったが、高校になり、その自信はことごとく打ち砕かれた。急にレベルがあがり昔のように簡単に理解できなくなってしまった。そんな中でもできる奴はできる。その違いを見せつけられ愕然とした。「自分はいくらやっても勉強では勝てない!」と思った。

そんな高校ではバス釣り以外にもギターにはまる。中学から聞いていたハードロックを自分でも演奏したくなった。ギターを買って時間さえあればずっとギターを弾いていた。キッス、ラット、オジーオズボーン、ヴァンヘイレン、モトリークルー、ボンジョビ等々。レンタルレコード店にも良く通った。

高校ではクラブ活動もせず、近所のダイエーで1年生から商品出しのバイトをしてた。ギターと原付を買うためだ。長髪でいつも変わった格好で原付に乗っていたのでよく警察に止められ、タバコのチェックをされた。もちろん捕まったことはないですが。。

今コンサルタントになって思うと、当時のダイエーはバイトの使いかたがなっていなかったなと思う。値札はりと商品陳列を単なる作業としてしか教えてくれなかった。まさに作業者の扱い。もう少しなぜこういう陳列の仕方をするのか教えてくれるとか、やる気を出す声掛けとかしてくれれば高校生でももっと精力的に働けたと思う。人を使う上で一番大切なのは、いかにやる気を高めるかということだと思うが、その当時はそんなことは考えたこともなかった。

高校3年になり大学進学を検討し始めるも、自分が一体将来なにをやりたいかわからず悶々とする。多くの同級生は理系を目指していたが、自分には興味が持てなかった。ただ唯一成績の良かった英語のつながりで外国語を勉強したいと漠然と考え、大阪外国語大学を目指すことに。

受験一年目は勉強の要領がわからず、一次試験結果がひどい状況。二次試験は、足切りにあい受験することができず。私立もいくつか受験するがどこも不合格。やはりそんな甘いもんじゃない。同じ高校の友達はなぜか現役合格ばかりで浪人は自分だけ。楽しそうな大学生活を送っているのを横目で見ながら、二年目は予備校通い。心を入れ替えこれまでにないほど必死に勉強。その甲斐あって何とか大阪外大に合格できた。自分の受験番号を発見した時には思わず涙が出ました。

それまでの人生あんなに必死に勉強したことはなかった。今思えば小さな挫折だが、その当時は浪人したことがかなりの屈辱に感じていたこともあり、頑張って努力が報われたことが、ほんとうにものすごく嬉しかった。

それから受験時代、とても嬉しかったのは、国立がダメなら私立でもいいと親から言ってもらえたことだった。うちは生活に余裕があるわけではなかったのにホント親には感謝している。

学科は、以前テレビで見たラテンのノリが楽しそう、そして将来ポテンシャルのありそう という理由でポルトガル・ブラジル語学科を選択。

大学は外国語大学という学校がら女性比率が高い。今でも大学時代の友人と帰省時に会うこともあるが、殆どが女性。不思議になことに異性だが同性のような付き合い。昔からよく「アツシ(私の名前)は中性やなあ」と言われていた。

今ではそんな友達が受験生の母になっているのが不思議。

在学中は、家庭教師のバイトをメインに、競馬場の警備員、お中元の配達、お菓子工場等々色々した。同じ時間働いても稼げる額が職種によって随分違うんだと感じた。当時はあまり何も考えず、ただお金欲しさに働いたが、今思うともっと仕事を通じ学ぶということを意識すればよかった。

大学生活は楽しかったが、大学3年に上がる頃からこのまま卒業すると後悔すると考え、ブラジル留学を検討し始める。「せっかくこの学科に入ったんだから現地に行って、生のポルトガル語、そしてブラジルを感じてみたい」と思いブラジルに1年間留学。初めての海外、しかも治安の悪いブラジル、見るもの聞くものすべて新鮮で大きなカルチャーショックを受ける。当時は携帯電話もない時代。一度日本を離れると唯一の連絡手段は手紙のみ。おまけに住むところから探さないといけないということで最初とても不安だった。だが親切なブラジル人夫婦とも現地で出会い、一緒に生活させてもらうなどの幸運に巡り合う。ブラジル人の温かさや優しさ、その他住んでみないとわからないたくさんのを学ぶ。それらの経験を通じて、改めて日本のいいところ、悪いところも見えてくる。改めて日本の豊かさにも感謝。そして将来何かブラジルのためにできたらなあと漠然と思うように。その時に知り合った夫婦は今でもフェイスブックでつながっている。2015年の12月にはブラジルを旅行し、20数年ぶりに彼らと再会した。昔と何も変わらず自分を受け入れてくれたのはほんとありがたい。人との出会いは本当に大切にしなければと思う。

帰国後はすぐに就職活動を始める。当時から「将来は自分で何か事業をやりたい!」と考えていた。ただいきなりは無理、先ずはサラリーマンで10年くらい修行が必要だと思った。最初商社を目指したが、バブル崩壊で採用が厳しくなり始めた頃で、どうも商社は難しそうだった。

両親は自分たちが苦労したことから公務員や大手企業に入ることを勧めた。苦労して育ててくれた両親の喜ぶ姿も見たい。というのも考え、結局、トヨタ自動車を選択し、何とか内定をいただけた。トヨタは海外での仕事の可能性もあり、面接でもじぶんのフィーリングと合いそうだと思ったので満足でした。

トヨタでは、海外営業部門に行きたかったが、最初は海外事業部門に配属された。そしてそこで「原価企画」という仕事に携わった。海外工場で生産される新しいクルマの原価低減活動の仕組みづくりだ。更に「海外工場の収益管理」の仕組みづくりもやった。アメリカ、カナダ、ブラジル、アルゼンチンにも何度も出張。慣れない英語で苦労しながら現地のスタッフと一緒に仕組みを作った。入社当初は覚えることだらけで毎日忙しく、あっという間に7,8年ほどが過ぎる。それまではとても楽しかった。しかしそのあたりから、大企業で働くことの限界を少しずつ感じ始める。仕事もそれなりに覚え、こなせるようになってきたが何か達成感を感じない。メーカーに努めているのにお客さんの声を聞く機会も全くなかったからか??

その間1996年に結婚。4.5畳の独身寮から脱出し、愛知県三好市の三好ヶ丘のアパートに住む。そこで昔から念願だったバス釣り用アルミボートを購入。愛車のハイラックスサーフにボートを乗せ、冬以外は毎週妻と琵琶湖でブラックバス釣りに。(ちなみに冬は毎週妻とスノボ。とにかく元気でした)

琵琶湖は湖といえ風のある日の波は半端じゃなく、まだ寒い3月のある日、一度エンジンがかからず遭難しそうに。湖北の周りに何もない切り立った湖岸にうちあげられた際、波がきつくボートに水が入り込み沈没の危機。腰まで水につかり必死に緊急用バケツで妻と二人で水をかき出しながら何とかエンジンをかけ脱出。今では笑い話だが「あの時はホントこのまま死ぬかと思った。。。」

1999年頃から南アフリカの担当に。現地に触媒工場をつくりヨーロッパに輸出するプロジェクトを任される。事業性検証や事業計画つくり、場所の選定や商流・物流ルート構築等、色々やらなければならなかった。

ただこのプロジェクト、メリットはあっても部品の調達場所を変える手間から調達部門始め、多くの部署は猛反対。会議を開いてもネガティブな発言が多く、辛かった。相手は殆どが自分より年齢も役職も二回りほど上の人ばかり。逃げ出したいと思ったこともしばしば。しかしそれでもなんとか頑張っていると徐々に状況が変わる。まだ若造でよくわかっていなかったが、色んな部署の管理職の人達から「よく頑張ってるな」と声もかけられ、次第に信頼も得られるように。ベルギー、イギリス、フランスにも行き、現地事業体の関係者と色々調整した。会社の仕事の中で一番きつかったが、一番自分が成長した仕事でもある。

 

ただ一方で、その頃には会社に入る前までの元気でノリのいい自分の性格が少し変わってしまっていた。大企業の中で揉まれ、少し性格が暗くなってきている自分を感じた。「今の自分は本来の自分じゃない。このままだと自分がダメになる。何とかしなければ!」と思っていた。会社というところは人を大きく変えてしまう恐ろしいところだなあとその頃は勝手に会社のせいにしてしまっていた。恥ずかしながら・・・

2002年、仕事の方では、当時の部長に「おまえは東京の海外営業のほうが向いているはずだ」と言っていただき、東京のアフリカ部へ異動に。「アフリカ向け車両の商品導入戦略」や「価格戦略」等の「販売・マーケティング業務」といった新しい仕事を経験。東京という華やかなロケーション、そしてこれまでと全く違った営業という世界で少しやる気を取り戻す。仕事は結構ハードで夜10時前に帰れない日が何年か続いた。それでも豊田市の本社とは180度違い、部署の雰囲気も明るく、忙しさも苦にならない。アフリカ部は一体感があった。当時の部長は皆をやる気にさせるのが上手かった。これこそ管理職の仕事だと思う。少ない人数でもパフォーマンスは高かったし、会社のモラル調査の結果も良かった。この時に「人は同じ仕事をしていても上司次第でやる気とパフォーマンスが変わる」ということを学んだ。普通だとなかなか訪問できないアフリカの国々も回った。南アフリカ、エジプト、アルジェリア、モロッコ、ケニヤ、モザンビーク等々。パリ・フランクフルト・ジュネーブといった欧州の各モーターショーにも行かせてもらった。

住まいは埼玉の大宮。仕事が落ち着いた頃から健康のため妻が通っていたスポーツジムに通い始める。そこで妻に誘われヒップホップ系のダンスクラスに出るも上手く踊れず撃沈。元来負けず嫌いな性格なため、そこからダンスにはまり一時期は週6日、ジムかダンススタジオに通うように。それも多い日は一日に2つも掛け持ちで。イベントの前には新宿の損保ジャパンのビルの前でよく仲間と練習していた。今思うとよくあれだけ情熱を注げたものだ。とにかく楽しかった。その頃は仕事しているよりダンスしてるほうが楽しかった。

しかしその頃、仕事ではアフリカを始めとする中小規模国向けのクルマがどんどん削られていくという事態に直面。

当時トヨタの成長の勢いはすさまじく、新工場建設、新モデル開発が次々と進められていった。しかし一方でその成長をカバーできる人材、特に開発部門の人的資源がが完全に不足。その結果、アフリカのような販売規模の小さいマーケットに導入される商品にしわ寄せがきたのだ。

当時の部長と一緒になり同じ問題で悩む新興国担当の営業部署に声掛けし、いわゆる「弱小国連合」というものを立ち上げる。そして一緒に豊田本社の商品企画部門や技術部門に働きかけを行い幾分かの成果を獲得。ただ本質的な問題解決には至らない。「気持ちはわかるけど、工数がないものはなんともならない。会社として考えた場合に小さな市場に時間はかけられない」とはっきり言われる。そしてアフリカに導入できる商品が削られていった。

 

アフリカの現地代理店のトップからは

「俺たちはトヨタのために頑張ってこれまで何十年もクルマを売ってきたのに、なぜ売れる商品が削られるんだ?」

「トヨタは俺たちを裏切る気か?」

と責め立てられたが、私はそれに対し何も返す言葉がなかった。

何もできない自分の不甲斐なさと会社に対する不信感。この時ほんとうに大企業で働くことの限界を感じた。

「自分はお客さんであるアフリカの人達のために全然貢献できてないじゃないか!」と。。。

そんな気持ちをいつもかんじていました。だから、このまま自分が、10年、20年とトヨタで働いていることが段々想像できなくなってしまっていた。

「トヨタでこのまま働いていればそれなりお金は得ることが出来る。ただ、それでいいのか???」

そして色々考えた結果、やはり

「もっとみんなの役に立ち自分が活き活きと働ける、そして子供に誇りをもって語れる、そんな仕事がしたい!」

と考えるようになりました。

そして本屋で資格の本を見ていて見つけたのが中小企業診断士。

「なになに?日本版MBA?」「国内唯一のコンサルタントの国家資格だ?」

「中小企業経営者のパートナーとなり一緒に会社の経営状況を向上させる。ふむふむ。。。」

 

とてもやりがいのある仕事に感じ、その後すぐ資格取得の勉強を開始。しかしそんな甘くはなかった。その後、名古屋のミッドランド、そして豊田本社に異動となった。海外向け世界戦略車等の「商品企画」を担当しながら、勉強を続けた。週末は予備校に通い、平日は電車の中と帰宅後に。殆ど会社に行っている以外は勉強に費やした。しかし1次試験は2年目から合格できるようになったが、2次試験が連敗続きに。資格を絶対諦めるつもりはなかったが、どうすれば合格できるかわからなくなっていた。予備校もTAC、大原、AASと3回変えた。そしてその頃はとにかくトヨタの嫌な面ばかりが目について、とにかくトヨタのことが嫌いになっていた。会社に居るのがとても苦痛でたまらなかった。

だから、とにかく早く試験に合格し、会社を辞めたいとしか考えていなかった。今思うと、そんな子供みたいでネガティブな考えが試験に合格できない原因だったんだと思う。視野が狭く、診断士として企業のコンサルができる度量があの頃の自分にはなかったんだと思う。恥ずかしいの一言。。。

そんな中、2009年6月には息子が誕生!結婚して10数年、念願の第一子誕生!当初張り切って出産に立ち会うつもりだったが、自分の首の頸椎ヘルニアの手術日に重なり、一生に一度のチャンスを逃すことに。予定日が早まるなんて、人生とは酷なもの。日頃の行いか???

そうこうしてるうちに昔使用していたアトピー用ステロイド薬の副作用で皮膚が次第にボロボロに。痒くてたまらない。発熱と極度のかゆみで集中できない中、それでもしばらくは何とか会社にも通う。しかしそのような状態でのインドネシア出張で劇的に悪化。

帰国後耐えられずすぐに入院。大阪にある脱ステロイド治療で有名な先生のところに駆け込む。治療は基本的に何もしない。規則正しい生活と運動で自律神経の働きを良くし、自分の本来持つ免疫力を高めるといった治療方法。そこで1か月半程入院し落ち着いたため、自宅療養に切り替える。

しかしそこからが大変。退院後、病院との生活環境との違いからか何度もリバウンドと感染症にかかり病状が悪化。熱と寒気、そして腕や背中から出る得体のしれない浸出液が止まらない。身体中かゆすぎて睡眠薬なしでは夜も眠れなくなる。特に風呂に入った後は最悪。肌が乾くにつれ地獄のような痒みがおそってくる。あの苦しみは体験してみないとわからない。骨を折って痛かった時のほうがよっぽどいい。鏡でとても人間の姿だと思えない自分の全身を見て、「なんでこんな目に自分があわなきゃならないんだ!」苦しくて苦しくてたまらず、あの時ばかりはそんな自分の運命を呪った。

そんな状態で毎日辛すぎて気持ちに余裕がなく、自宅にいると妻や当時まだ3歳程の息子にもうまく接することもできない。そのため大阪の実家に移り闘病生活を送る。

闘病中は、自分の人生を見つめなおすために色々な本をむさぼり読む。そして色々気付かされた。

本物の成功者と呼ばれる人は、必ず多くの苦難を乗り越えてきていること、その中で自分の天職を見つけ、それを全うするために心血を注いでいること。そして何より、誰もがとても人格者であること。等々、色々学ぶ。

そして、

「自分の不幸を他責にすることは間違っていたこと。」

「自分にこれまで起こってきたことは、すべて自分が招いたこと。」

「どんな辛い出来事でもそれは必ず自分の人生にとって意味のあることである。」

と考えられるようになる。これは病気にならないと学べなかったことであり、病気になったことにも意味があったんだと次第に前向きに考えられるようになる。

「あの苦しみは一生忘れられない!」しかし闘病中色々考える中、「いつ病気でやりたいことができなくなるかもしれない。そうなる前にやりたいことをやろう!」「死ぬ時に絶対後悔したくない!」と改めて強い思いを抱くように。

それと同時に、感謝の気持ちが自分には欠けていたことにも気付く。

自分が休んでいる間の仕事をフォローしてくれている上司含む仕事関係者、自分のために色々考えて世話をしてくれる妻と両親、遊んであげられない息子、そして働いてなくても給料を出してくれる会社、そういった周りのすべてに対する感謝の気持ちが人として何よりも大切なことに気付く。

これまで自分は自分の力で生きてきていると思っていたが、自分が生きていけるのは周りのすべての人やものに支えられているからだと初めてまともに実感。これからは感謝の気持ちを絶対忘れずに生きて行こうとその時心に決める。

自分に長年給料を出して、育ててくれたトヨタに対しても本当に感謝の気持ちが持てるようにもなった。

結局会社は半年ほど休む羽目になるが、復帰後、勉強を開始してから約6年後、5回目の挑戦でようやく試験に合格。大学受験の時もこれまでにないほど勉強したと思ったが、診断士試験はそんなものとは比べ物にならないほど難しかった。2012年はれて中小企業診断士として登録。

合格できたのは自分の考え方が闘病生活を通じ変わったからではないかと分析。昔の自分の考え方では中小企業診断士としてやっていけなかったはず。やはり合格できなかったのにも意味があったんだとその時改めて実感。

そうやって人生を前向きに考え、自分の悪いところを反省し正すように心掛けるようになり、色んなことが自分の周りで変わり始めた。その頃から次々といい出会いや出来事が起こり始めるようになる。

その時感じた。これは会社経営や商売と同じだと。自分のことばかり考えていては会社は上手く回らない。お客さんや従業員、取引先、そして自分の住む地域等々、周りのことをしっかり気遣い、感謝する気持ち。これが商売繁盛の一番の秘訣だと思った。確かに世のを見渡せばこの法則が当てはまっている。

資格取得後すぐ2013年に会社の経営企画部門に異動。ところがなんとそこでもまた皮膚のトラブル発生!調子よくなってきたと思い油断していた。完治していないのに不摂生な生活を送ってしまい、ぶり返したのだ。皮膚がボロボロになり、微熱が続いた、職場の上司の勧めもあり再度病院に入院。今度は3か月で復帰できたが、痒みが完全になくなったのは更に半年以上かかった。ただお陰様で今回は完治した。

その後、トヨタでの会社勤めを送る傍ら、週末を利用し中小企業診断士の研究会に積極的に参加。中小企業の経営改善のための診断業務やセミナー講師を通じて、中小企業の支援にもいくつか関わる。

それらの活動を通じ、やはり中小企業診断士の仕事を天職だと感じるように。「本当に自分はこの仕事が大好きだ!」「残りの人生はこの仕事に捧げていきたい!」と思うように。​会社にいるよりそっちの活動をしてる時のほうが間違いなくワクワクしていた。

その後トヨタでは、会社の全役員が参加する経営会議の運営やグローバル全社で進めるリスクマネジメントのしくみづくりを任されるように。そのため世界中を飛び回って各地域のリスクマネジメントの実態を調査した。アメリカ、ヨーロッパ、南米、アフリカ、東南アジア、中国等。そして何度も議論を繰り返し、徐々に体制を整えていった。その頃は仕事の楽しさをまた改めて感じることができるようになり、毎日、楽しかった。

ただ、もうその頃には体調の心配もなくなり、独立の意志も完全に固まっていた。だから上司にも自分の独立の想いを打ち明けた。「仕事のキリのいいところで退職させて欲しい」と。上司からは「本当に残念だけど、そこまで意志が固いなら何を言っても無駄だし、是非応援させてくれ」と言ってもらえた。病気復帰後はホント周りの人に恵まれたと思う。一時期卑屈になっていたそんな自分の考え方を大きく変えることができた。これが人生好転の最大の要因だと思う。自分が変われば周りが変わるんだと本当に実感した。

 

結局、そこから退職するまで1年半くらいかかったが、2017年1月1日付けで会社から支援もいただきトヨタ自動車を円満退職。1月8日付けでフェリーゼス経営支援事務所を立ち上げ今に至る。

人としてまだまだこれから磨いていかなければならないことは沢山ありますが、自分の家族含めこれからご縁をいただく多くの人を少しでも幸せにできるよう頑張っていきたいと思っています。よろしくお願いいたします。

最後に自分の独立を認めてくれ応援してしてくれている妻には本当に感謝しています。​

独立の半年前に母親を亡くし、精神的にも肉体的にも大変だった中、そして今でも色々な手続きや実家の整理等々で疲れているそんな中でも私の独立を認めてくれました。

「トヨタを辞めなければある程度安定した生活は保障されているのに。。。」というのが本音のようですが、昔と違い少しは精神面で成長した私の気持ちを今は尊重して支えてくれています。

「数年前のあなたの考え方なら独立してもうまくいかないと思うので独立なんてとんでもないと思うけど、今なら何とかやっていけるかなという気がする」と言ってくれています。本当に感謝しています。妻の期待に応えるためにもしっかり自分の使命を全うしていく所存です。

まだまだ書ききれませんし、十分に伝えることができていないかもしれませんが、金本 淳とはこんな人間です。

2017年2月某日 長久手の自宅にて

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